サラダバーで結納

本当によくあるブログ。作品の感想や思ったことを書いているブログ。

もう十分生きたという感覚

ふと、外を歩いているときに「あぁもう十分生きたなぁ」という感覚になった。

30年生きた。

もうそれでいいじゃないかと。

 

やり残したと思うことはこれといってなく、やりたいと思うこともない。

「嫌なことを避けられるならまだ生きたい」という気持ちすらない。

もう十分生きたという感覚。

 

 

必要十分生活

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必要十分生活~少ないモノで気分爽快に生きるコツ~

必要十分生活~少ないモノで気分爽快に生きるコツ~

 

 

 

不安は他人事

不安に襲われてかなり落ち込んでいたんです。

うつですよ。

そこで、よく言われるアドバイスの「不安を観察する」というのをやっていたんです。

ただただ不安を観察するんです。

 

そのとき気がついたことなんですけどもね。

不安がやってきているのに飲み込まれる自分と、不安を冷静に観察している自分がいるわけです。

それで「どちらが本当の自分なのだろうか?」と思ったわけです。

 

不安が起きる。

それを観察している自分がいる。

不安は自分ではない。

不安は勝手にやってくる。

だから冷静に観察している方が自分だ。

不安は他人事と言える。

 

 

人生に起こる数々の物語。

それらは自分の人生だと思っていたけれども、本当の自分はそれらを常に観察している存在であることがわかった。

物語が起きていることに気がついている自分が本当の自分なのだと。

人生はただの物語で、本当の自分とは関係がない。

人生すら他人事なのだとわかった。

自分の人生と思っていたものは、他人事なのだと。

 

 

すでに目覚めている(覚醒ブックス)

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早く死ねたらいいね! ― <私はいない>を願う人への非二元と解放の言葉 (覚醒ブックス)

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完璧主義に潜む「人生の重さ」

完璧主義の人がいる。

かくいう私もその一人だった。

完璧主義なだけで実際に完璧にできることはほとんどない人間であったが、とりあえず完璧主義であった。

なぜ完璧主義であったのか。なぜそれをやめれたのか。

その話をしようと思う。

 

 

・ちゃんとしなければならないという意識

完璧主義の人には「ちゃんとしなければならない」という意識があるだろう。

ちゃんとしなければならないから、完璧にこなさなければならないというわけだ。

私ももちろんそう思っていた。

「ちゃんと」の基準が「完璧」になっているが故に完璧主義なのだ。

一切の妥協を許さず、手を抜くこともできない。

なぜなら「ちゃんとしなければならない」からだ。

では、なぜ「ちゃんとしなければならない」と思うのだろうか。

 

 

それは「人生を重く考えているから」だろう。

自分の人生も他人の人生も重く考えるから、ちゃんとしなければならないと思うのだ。

人生は重いものだからプレッシャーを感じてしまう。

そのプレッシャーが「ちゃんとしなければならない」という意識につながり、そして完璧主義へと誘うのだ。

 

そこで考えてみるべきなのは「本当に人生は重いのか」ということだ。

私は人生は重くなど無いと考えている。

どうしてそう思うのかといえば、すべてに意味がないからだ。

人間はいつか死ぬ。

必ず死ぬ。

地球もいつか滅びる。

人類は滅亡する。

最後には宇宙も消失する。

自分がプレッシャーを感じているこの世界は、いずれ消失する。

自分が維持しようとしている命、社会、世界はいずれなくなるのだ。

なくなるとわかっていることに意味が見いだせるだろうか?

そう、意味はないのだ。

 

意味がないのだから、人生など重くもなんともない。

どうせ消失するのだから「ちゃんとしなければならない」と思う必要もない。

壊れるとわかっているのだから、適当で構わない。

そう考えるようになって完璧主義がなくなった。

人生は重くない。

だから完璧である必要はない。

 

がんばっていても不安なあなたへ―完璧主義からの解放

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