サラダバーで結納

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「自死という生き方」 健康のまま自死を選んだ人の話

誰だって死ぬのだが、その死に方は様々であるが、ある日倒れてチューブに繋がれたまま何をするでもなくベッドの上でただ過ごすだけの日々。身体には痛みがはしり、介護で家族に迷惑をかけることへの心理的な負担。

死ぬことがわかっているのに苦痛と憂鬱の日々を生きるという地獄。

そんなことを考えたら本当に天寿をまっとうすることは良いことなのだろうか。

そうなる前に死んでしまったほうがマシではないか?

 

著者の須原一秀氏は1940年生まれの社会思想研究家だった。

だった と書いたのは著者がすでに亡くなっているからである。

なぜ死んでしまったのかといえば「自死」を決行したからだ。

須原は65歳の春、ある神社の裏山で頸動脈を自ら斬り裂き自死を成し遂げた。

鬱だったからではない。身体の病気だったわけでもない。身体も心も健康そのものだった。虚無主義者でもない。人生に絶望したわけでもない。平常心のまま哲学的事業として自死したのだ。

 

 

一般的に考えられている自殺の理由は5つあり

  1. 生き続けることが出来ないほどの肉体的苦痛ないし精神的苦悶があった
  2. 精神異常、隠された異常性、あるいは精神的屈折のどれかがあった
  3. あの人にはもともとどこか暗いところがあった。つまり、人生に対して悲観主義者か厭世主義者かである
  4. 一時的に変になったか、もともと変人であった。あるいは、薬の副作用か何かで一時的におかしくなっていた
  5. 天才、文学者、哲学者、芸術家などは、どうも一般人のうかがいしれない理由で自殺するようだ

 

なのだそうだ。

だが、著者は6つ目の可能性があるという。

もともと明るくて陽気な人間が、非常にサバサバした気持ちで、平常心のまま、暗さの影も異常性も無く、つまり人生を肯定したまま、しかも非常にわかりやすい理由によって、決行される自死行為がある

と、いうのだ。

それらの三島由紀夫伊丹十三ソクラテスの3人のエピソードで論じている。

なぜ彼らは人生への未練を断ち切れたのか、彼らはどのようにして「人生を生き切った」という「極み」を得られたのだろうか。

そして自死を決行するときの苦痛や恐怖をどうやって克服したのだろうか。

それらを紐解いていき、平常心で自死するために必要なもの要素を見つけ出す。

 

著者が残した「新葉隠」は、「人生はつまらない」というようなものからくる自死肯定論とは真逆である。

夢、希望、恋愛、仕事、子育て、家族生活、社会生活に一部でも充足感や達成感を持っていることが自死には必要だ、と。

人生に満足を覚え、あとは老いてボロボロになっていくだけならば、元気なうちに自死したほうがいい。それが著者の言う自死肯定論なのだ。

 

 

私がこの本を買ったのは数年前だ。それなりに死にたい気持ちになっていた頃だと思う。

自分の自殺願望を肯定してもらいたかったのだろう、その期待はまんまと裏切られたのだが。

 

現在、尊厳死安楽死が話題となり、実際にスイスには安楽死するための旅行者がいる。

自死というものの考え方が少しずつ変わってきているのは間違いないだろう。

自然死がよくてとにかく寿命をまっとうすることが良しとされた時代が変わろうとしているのだ。

そんな時代に読むべきは、この「自死という生き方」だろう。

 

自死という生き方 (双葉新書)

自死という生き方 (双葉新書)