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サラダバーで結納

本当によくあるブログ。作品の感想や思ったことを書いているブログ。

フィクションを継続する場所としての現実

古事記を読んで日本の成り立ちってやつをなんとな~く知ったわけです。

まぁ日本書紀との間で整合性がとれない部分とかあるみたいですけど、そんなことはどうでもいいんです。

よくこんな物語思いついたなぁという感想がすべてでございます。

垢から神が生まれるって発想はすげぇなぁとかそういったレベルの感想ですけども。

 

それにしても古事記が書かれてから1000年以上経っていますが、日本は未だに天皇がいるのでこの物語を継続しているわけですよ。

で、その物語のモブキャラとして自分が存在していると考えると、なんだかフィクションの世界にいるみたいだね。

なんだか、日本という国は昔の人が考えたフィクションをずっと継続している国に思えてきた。

そう考えると良い悪いは別にして面白い国だね。

と、思ったんですがよくよく考えてみれば宗教ってやつも同じなんだね。

キリスト教イスラム教もずっとフィクションを継続しているんだね。

フィクションだと思っていない奴らもたくさんいますけどね。

 

そこらじゅうでフィクションが継続されているこの世界がだんだんフィクションに思えてきた。

というか、現実はフィクションじゃねぇのか?

いや逆か? フィクションを継続できるのが現実なのか?

わからなくなってきたよ。

 

 

そういえばポストモダンってやつは大きな物語の喪失ってことですよね。

ってことは、古事記から続くフィクションとかキリスト教とかそういうフィクションが喪失したのが現代ってことか。

前々からポストモダンのことを聞いたことがあったけど、こういうことだったんだね。

なんかやっとわかった感じ。

 

フィクションを継続することができなくなっているんだろうね。

そう考えるとモブキャラとしての自分も終わりに近づいているんだろうな~。

 

 

 

現実ってのは本当になんなんだろうか。

だって未だに古事記の物語継続しているのが現実だなんておかしな話でしょ。

現実だったらとっくにそんなフィクション終わらせてないとおかしいじゃん。

キリスト教やらイスラム教を信じている奴らがいるなんてこの世界はどう考えてもフィクションじゃねぇか。

でも現実ではそういうフィクションがちゃんと生き残っているわけだ。

なんていうか、この現実はフィクションに侵食されすぎてないか?

フィクションで世界が動きすぎだろ。

そう考えるとフィクションを継続する場所として「現実」があるだけのような気持ちになってくる。

 

これ以上考えるとやばい世界に浸りそうだからやめておこう。

現実は思ったよりもあほっぽいって結論にしておこうかな。

 

ポストモダンの50人 -思想家からアーティスト、建築家まで

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“ポストモダン”とは何だったのか―1983‐2007 (PHP新書)

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