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サラダバーで結納

本当によくあるブログ。作品の感想や思ったことを書いているブログ。

強い刺激が必要なくなってきた

日々生活しておりますと、刺激というものを求めるものでございます。

その刺激にも多種多様なものがあり、一言で片付けるのは不可能でございます。

 

私は最近、刺激に関して「強い」ものが必要なくなってまいりました。

ここでいう「強い刺激」がなにかと申し上げれば、大きな音や迫力のある映像、どんでん返しに次ぐどんでん返しが繰り広げられる物語など、テンションを乱高下させるような刺激のことを言っております。

 

前までの生活では、マンガや小説では日常からかけ離れた物語というものを好んでおりました。

SFというジャンルはそれを実現したものが多く、イマジネーションの果てへと誘うものであり好いておりました。

漫画にしてもまるで何がどうなるのかさっぱりわからず、作者の描く強烈な世界に圧倒されてしまうようなものを好んでおりました。

音楽においてもテンションがアガることを重視し、日常生活のすべてを吹き飛ばしてくれるような時間を音楽に求めておりました。

これらすべてを「強い刺激」という言葉で私は表現しております。

 

 

ここ最近、これらの「強い刺激」というものを求めなくなっております。

「強い刺激」というものは「極端」でなければ強い刺激にはなりえません。

そう考えると私は「極端」を好んでいたということになります。

しかも最初から「極端である」ものを好んでいたということになります。

ですが、最近気がついたのは「極端であるもの」でなくても、自分が何度も何度も同じことを繰り返したり、何時間もかけてじっくりと行うことで「極端」になるということに気が付きました。

別になんてことのない風景を何時間も見続ければ、それは「極端」になります。

テンションのアガるダンスミュージックという「強い刺激」でなくても、なんてことない歌を何日間も聞き続ければ「極端」になります。

 

「極端」を好むのであれば、それは自分自身が「極端」を作り出せばいいだけのことで、わざわざ「最初から極端」であるものを求めなくてもよいのです。

そのことに気がついてからというもの「強い刺激」は必要なくなりました。

「強い刺激」が必要なくなったということは、「強い刺激」を与えてくれるものを探す必要がなくなるということになります。

探すことが必要なくなったということは、何事もやってくるのを待てばよいということになります。

綺麗な風景を見たいからという理由で絶景が見られる場所を探す必要はなく、日々の生活で当たり前のように見ている風景を何時間も見続ければいいのです。

ただ待てばよいのです。

 

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