サラダバーで結納

本当によくあるブログ。作品の感想や思ったことを書いているブログ。

すべてが無価値にしか思えない 「アウトサイダー」

 前に「宇宙はいつか滅びるからすべてが無意味 という記事をかいた。

そんな風にすべてが無価値だと思っており、社会に適応せず秩序の内側にとどまることを拒絶する人たちのことを「アウトサイダー」と言う。

そんな「アウトサイダー」な人物を分析し、「アウトサイダー」とは何かをつきつめたのがこの作品である。

アウトサイダー(上) (中公文庫)

アウトサイダー(上) (中公文庫)

 
アウトサイダー(下) (中公文庫)

アウトサイダー(下) (中公文庫)

 

私個人が気に入った箇所を引用する。

自由は、その前提として自由意思を要求する。これは自明の理である。

が、「意思」が働きうるためには、まず動機がなければならぬ。動機のないところに意思はない。

しかし、動機とは信念の問題にほかならない。何事にせよ、それが可能で意味のあることだと信じぬかぎり、それをなそうという気は起こらぬものだ。

そして、信念とは、何ものかの存在を信じることではなくてはならない。

つまり、信念は現実なるものとかかわりあう。

それゆえ、自由は結局、現実なるものに依存する。

ところが、「アウトサイダー」は、その非現実感ゆえに、根源から自由と遮断されている。

非現実の世界で自由を行使することは、降下しながら跳躍することと同様に不可能なのだ。

 すべてが無価値だと思っている「アウトサイダー」は現実を無意味だと思っている。

現実に意味がないのに動機などというものが持てるであろうか。

非現実感がある限り、「アウトサイダー」には信念がなく動機がなく自由がないのだ。

 

アウトサイダー」の問題とは、自由の問題であったのだ。

彼が「究極的な肯定」と「究極的な否定」とに一途に専念していたということは、すなわち、絶対的自由もしくは絶対的束縛にかかずらっていたことにほかならない。

(中略)

人は、自分が自由でないのを知って苦慮しはじめると同時に「アウトサイダー」となることがわかる。

 自由がないと知ってしまったら「アウトサイダー」になるのだ。

 

 

アウトサイダー」とは、あるがままの人生を認めることができず、自分の存在にせよ、他人の存在にせよ、それが必要なものだとは考える事のできぬ人間なのだ。

これは本当にその通りなのだ。すべてが無価値なのだから自分も他人も必要だとは思えないのだ。

 

アウトサイダー」は何よりもまず「アウトサイダー」たることをやめたがっているという点である。

その通りである。だからといって、意味があると無理矢理に思い込むのも不可能である。

だからこそ「アウトサイダー」をやめるのは難しいのだ。

 

 

アウトサイダー」の探求をすればするほど、彼は変り種ではなく、「楽観的で健康な精神の持ち主」よりもただ敏感であるにすぎぬという結論がはっきりしてくる。

アウトサイダー」はただ敏感であるにすぎない。

敏感であれば誰もが「アウトサイダー」になる可能性があるということだ。

 

 

プラトン主義者といえども、「この最も良き世界においては、すべては最良の道を辿っている」と自己の見解を披瀝した直後に、大理石門の前でバスに轢き殺されぬともかぎらぬことは、徹底したペシミストとなんら変わりはない。

どんな信念をもっていようと、そんなものは、自分に襲いくる運命とは無関係なのだというこの恐怖こそ、実存主義のもっとも始源的な根拠となるものであり、同時にそれは、なんらかの神慮なり宿命なりを信じることが、あらゆる宗教と大半の哲学にとって必須の本質条件であることを意味している。

 数秒後に死ぬかもしれない。だからこそ運命やら宿命ということを考えずにはいられないのだ。

 

 

アウトサイダー」にとっては、自分の生まれおちた世界はきまって無価値の世界であり、あくまでも目的と方向をもとめる自分の意欲にくらべれば、世人の大半の生きかたは人生とは言えず、漂流にすぎない。

ここに「アウトサイダー」のみじめさがある。

なぜなら、あらゆる人間には群衆本能があって、この本能は、過半数の人がなすことこそ正しいのだと信じるようにしむけるからだ。

もし「アウトサイダー」にして、高次にして強烈な自己の目的意識に呼応する一連の価値を生み出せぬとしたらな、いっそバスのしたに身を投げるにこしたことはない。

そうしなければ、いつまでも彼は適応不能の疎外者であらねばなるまい。

 しかし、ひとたびこの目的が発見されたなら、障碍はなかばで乗りこえられたことになる。

もうこれ以上ためらうことなしに「アウトサイダー」は自覚すべきだ------わたしが他の人と違うのは、もっと偉大なものに運命づけられているからだ、と。

 「アウトサイダー」は群衆に適応することなどできない。

すべてが無価値だと思っているが故に、みんながやっていることが正しいとは思えないからだ。

そんな「アウトサイダー」は、偉大なものに運命づけられているのだと、著者のコリン・ウィルソンは言うのである。

 

 

 

そろそろ引用するのをやめて最終的な結論というものを紹介しよう。

この「アウトサイダー」という本では、すべてが無価値にしか思えないにもかかわらずそんな状況から脱出したいと思っているアウトサイダー達に、その脱出法を探求している。

その脱出法というのが簡単に言うと「悟り」である。

悟り、覚醒と言った言葉で表される、訪れる人には訪れるがそう簡単に訪れないやつが脱出法とされているのだ。

 

なんてことはない。

すべてが無価値だと思って虚無主義に陥っている人は、悟り開いて一発逆転するべしと言っているのだ。

それが簡単にできないから困っているのだが。

 

 

人生が楽になる 超シンプルなさとり方 (5次元文庫)

人生が楽になる 超シンプルなさとり方 (5次元文庫)

 
「私」という夢から覚めて、わたしを生きる: ?非二元・悟りと癒しをめぐるストーリー?

「私」という夢から覚めて、わたしを生きる: ?非二元・悟りと癒しをめぐるストーリー?