サラダバーで結納

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悟りとは認識の転換である 「悟り系で行こう」

悟りとは何か。

実にシンプルな問いであるが、その答えは実に難しい。

だが、「悟り系で行こう」の著者である那智タケシは一言で言い表す「認識の転換である」と。

悟り系で行こう―「私」が終わる時、「世界」が現れる

悟り系で行こう―「私」が終わる時、「世界」が現れる

 

 著者の言う認識の転換とは何かと言えば、「私」から「世界」への認識の転換である。

それが著者に起きたときの話がのっている。著者が上司から説教を受けていた時

ふいに、私は自分の自我が、ちっぱけな石ころのように無意味であることに気がつきました。

「私」は無意味でした。

私は何ものでもなく、そこいらにある石ころと同じだけの価値しか持たないものでした。

特別な「私」は消え失せました。

すると、「説教を受けている私」と「説教をしている上司」はいなくなり、ただあるがままの世界がありました。

私の彼の間に差異はありませんでした。

(中略)

「私」が破壊された瞬間、そこにあるのは「世界」だけだったのです。

 これが著者の言う認識の転換である。

私は「私」ではなく、「世界」だったというのだ。

 

となると、「私が悟った」というのはおかしいと著者はいう。

「私」が消え去るのが悟りなのだから、悟ったら「私」が消え去らなければならない。

だから「私が悟った」という表現はおかしい、と。

悟りは所有できるものではないということだ。

 

 

「私」が消え去るとどうなるのか。

「私」という虚構性を認識しているから、たとえ誹謗中傷を受けても致命傷を受けないと著者は言う。

人間であるから多少なりともダメージは食らうが「私」は虚構であると認識しているので致命傷まではいかない。

なぜなら「世界」は傷つかないから。

世界は世界であり、人が殺し合おうが愛し合おうが関係なくそこにある。

だから、「私」が消え去り「世界」であると認識したならば、救われているとのこと。

 

 

 

著者は現代がかつて無いほど病んでいる時代だという。

理由は人々が「私」のために生きすぎているから。

誰も彼もが「私」のための行動をしすぎている。

エゴイズムによって汚染されている、と。

「私」が狂気を生み出しているのだから、「私」を滅しなければならない。

そう著者はいうのだ。

実に大胆な主張である。

「悟って「私」を滅せよ! そして世界の狂気を止めろ!」というのだから。

 

 

最後に著者が認識の転換に至った方法を紹介しておこう。

クリシュナムルティのあるがままを見つめる という方法だ。

自分の思考を見つめ、自分の自我を見つめつづける という方法だ。

著者の那智タケシは7年ほど自分を見つめ続けた後、↑に書いた上司に説教されていた時に認識の転換が起きたという。

 

 

あー私もとっとと私を滅してしまいたい。

アウトサイダー的人間は悟りを開いて一発逆転するしかないのだから。

tsukenosuke.hatenadiary.com

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