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サラダバーで結納

本当によくあるブログ。作品の感想や思ったことを書いているブログ。

苫米地英人による『「生」と「死」の取り扱い説明書』

死の恐怖とは「自分という存在そのものが消えてなくなること」と「自分という存在の価値がこの世から消えてしまうこと」の二つがあると著者の苫米地英人は言う。

そしてこの本は、その二つとどう向き合うのか書かれた本である。

「生」と「死」の取り扱い説明書

「生」と「死」の取り扱い説明書

 

第一章は、死の専門家とも言える「宗教」について

死とは何かを考えてきたのが「宗教」である。

生と死を考えない宗教はない。

宗教は、死後の世界やら極楽浄土やら地獄やら天国やらを生み出した。

 

 

第二章は、死とはそもそも何なのかについて

苫米地は宗教が生み出した死生観はすべて妄想だと第二章で切り捨てる。

ただ妄想が悪いわけではなく、妄想を事実だと思い込むのがよろしくないと説く。

妄想と妄想として受け入れて、死の恐怖が和らぐなら有益だという。

 

 

第三章は、「自分」と「宇宙」について

自我と宇宙は同じものだと言う苫米地。

ならば個体の死は物理的な存在が情報的な存在に変わるだけであって、自我は消失しない。

質量保存の法則があり、質量はエネルギーと等価なのだから、物体は情報に変わるだけと主張する。

 

脳は物理的宇宙を正しく認識してはいないと脳機能学者の苫米地はいう。

だから誰もが自分自身の脳内の宇宙「情報宇宙」を生きているという。

だから一人一宇を生きているといえるのだと説く。

 

 

第四章は、死を恐れる「恐怖心」について

恐怖には二つあり「いわれのある恐怖」と「いわれのない恐怖」がある。

いわれのある恐怖は「怖がる必要のある恐怖」のことで、身の危険であったりそういった恐怖のことである。

いわれのない恐怖は「怖がる必要のない恐怖」のことで、幽霊を怖がることなどの怖がっても仕方がないことのことである。

恐怖が人々をコントロールする。

 

いわれのある恐怖ならばその原因を取り除けばいい、いわれのない恐怖ならば怖がる子こと自体が無駄。

それでも、出てくるのが恐怖心というもの。

その恐怖心に打ち勝つための方法として「最大限まで恐怖を強めてみる」というものを苫米地はおすすめしている。

想像でも実際に体験してもいいので、恐怖を感じ、それをあとで冷静に分析すると大抵のことはなんとかなることがわかると説く。

 

そして、死の恐怖を日常のスパイスとして、ホラー映画をみるかのようなものと捉えられるようになれば、問題なし。

死の恐怖はただの娯楽となると説く。

 

 

第五章は、死を通して「生きる」ことについて

「生きるために生きる」のが人生であるという。

そして、その人生に機能(役割)をもたせることもできるという。

そして生きている間の機能は死後も続くという。

 

一人一宇宙なのだから、この宇宙の主人公はあなた自身である。

あなたが生み出した機能が縁起を産み、その縁起がある限りあなたの宇宙は消えない。

あなたの宇宙が消えなければあなたの自我も消えない。

今生きているこの瞬間だけが、宇宙を消さないために行動できるチャンスの瞬間であるとのこと。

 

 

 

感想

宗教の死生観は妄想であるならば、この苫米地英人氏の死生観も妄想と言えるだろう。

機能が縁起をうみ、その縁起が消えないかぎりあなたの宇宙も消えない、そしてあなたの宇宙がある限り、自我も消えない。

まるっきり妄想ではないか。

そう考えることはできるだけのこと。

本書の第二章で「妄想を妄想として受け入れて死の恐怖が和らぐなら有益」ということが書かれている。

この本の最終的な結論を妄想として受け入れるかどうかはご勝手にということだろうか。

 

ただ、死の恐怖を娯楽と捉えるというのはなかなかスリリングで面白そうだと思った。

 

 

苫米地英人、宇宙を語る

苫米地英人、宇宙を語る