サラダバーで結納

本当によくあるブログ。作品の感想や思ったことを書いているブログ。

「人はなぜ死ななければならないのか」

困ったことに人間は死ぬ。

なんで死ななければならないのだろうか、疑問に思うのも無理はない。

なので読んでみたのがこの本。

人はなぜ死ななければならないのか (新書y)

人はなぜ死ななければならないのか (新書y)

 

 「人は何のために生きるのか」という問には「~のために」という概念が含まれる。

これは意味や目的を求める概念であり、人生にそういったものを求める心理があり、それは

「無限のただなかに置かれた有限な存在としての自己」という観念に発する「恐れと驚き」のうちにこそある。

と著者は言う。

要するに宇宙には無限に時間があって無限に空間があるのに、自分は有限であることに恐怖を覚えるということである。

 

それでもって、意味や目的というものは具体的な「到達点」を想定して始めて成り立つ。

それは一定の未来時点、現在の外側の未来時点に設定される。

ならば「生きること」の意味も外側の未来時点に設定せざるをえない。

さて、「生きること」の外側の未来時点がどこかといえば、死である。

すなわち生きることの意味を問うたならば、答えは「人は死ぬために生きている」ということになってしまう。

「人は何のために生きるのか」という問の立て方に論理的なまずさがある。

もともと意味や目的というのは人生の「内部」につきまとうものであり、その場合にのみ合理的になる。

だが、人間は人生全体に「外部」から意味付けをしようとして不条理な結論になってしまう。

 

人生に意味はないということかといえば、人生全体に対しては意味や目的は発見できない。

だが、人生の内部における個々の営みには意味や目的を見出している。

恋愛やら結婚やら快楽やら仕事やら芸術やら遊びやら、そういったものに意味を見出している。

私たちの生が絶対的に有限なものであるからこそ、私たちは生の内部に意味や目的を耐えず「仮構」しなくてはならない。

意味や目的は与えられるものではなくて自ら作り出すものである。

そうして人生を不幸にしないようにすることを目指す。

「人は何のために生きるのか」という問は「人はどのような意味や目的を設定すれば人生をできるだけ充実したものにできるか」という問に置き換えなければならないと著者は言う。

 

 

人生全体には意味も目的もない。人はそれを与えられないまま、ただ無意味に死んでいく----そんなことはわかりきったことだ。

だが、生に対する本能的な執着や情熱が少しでもあるかぎり、人は何らかの物語に己を託して生きていくのである。

生きる意味や目的とは、あらかじめそこに「ある」ものでもなければ、思索によって探り当てられるものでもない。

それは、人生全体の中の個々の部分において、それぞれの人が自ら仮構し、創り出すものである。(p.83)