サラダバーで結納

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非二元の探求が終わりそう

もう1年以上前から悟りを求めていた。

いつか悟るんだと決めていた。

色んな本を読んだ。仏教の本には瞑想しろと書いてあった。

だから瞑想した。

他の本を読んだ。瞑想に意味はないと書いてあった。したいならすればいい、だが悟りには関係がない、と。

 

去年の12月にヘルメス・J・シャンブの「”それ”は在る」という本を読んだ。

?それ?は在る―ある御方と探求者の対話 (覚醒ブックス)

?それ?は在る―ある御方と探求者の対話 (覚醒ブックス)

 

これまで読んできた非二元の本の集大成とも思える内容だった。

直感で「非二元はこの本だけあればいい」と思った。

だが、相変わらず悟りについてはわからないまま、非二元についてもわからないままだった。

そこで悟りを求めることをやめた。

悟るなら勝手に悟るし、悟らないなら一生悟らない。それでいいと思った。

 

 

非二元を捨てた、だがスピリチュアルは捨てられなかった。

非二元以外のスピリチュアル本を読み、それを受け入れることにした。

だが、完璧には受け入れられなかった。どうしても非二元が引っかかっていた。

魂が在ると言われても、非二元にはそんなものはないと書かれていたからだ。

 

そして、2018年の8月の後半。

久しぶりに「”それ”は在る」を手にとった。

理由はわからない。ただ読みたくなったのだ。

しおりが挟んであったところから読み始めた。

するとどうだろう。

いままでわからなかったことがスラスラわかる。

何をいっているのかわかる。

理解できる。

理解は悟りではないのだが、とりあえず理解ができることがわかった。

 

 

146ページから引用を載せよう。

この部分を読んでどういうことかわかったからだ。

「『私とは何か』と問いなさい。そして、直接的な答えを得なさい。明確なこたえがそこにあるのではないかね?」

「そうなのですか?」

「もう一度、問いなさい。そして、その声を聴いてみなさい。思考ではない声を」

探求者は目を閉じた。

 

「師よ」と探求者は、静かに目を開けた。その表情には落ち着きと、どことなく歓びが含まれていた。

「なんだね?」

「わかりました。わかりました。師よ、私は声を聴きました。それは、声なき声です。

私は、答えを聴きました。それは、あまりにも明白な答えです。

なぜ私はこれまで気づかなかったのでしょうか」

ある御方は優しい笑みを浮かべた。

探求者は続けた。

「師よ、私とは沈黙です。私とは無です。私とは空です。

 そうです、そうです、そうなのです。

 これが私は探していた<空>なのかもしれません。それは静寂の空間です。」

 この「私とは何か」を問うことを実際にやってみていただきたい。

答えが帰ってくるのをただ待つ。

思考するのではなく、ただ答えを待つ。

そうすると、きっと何も帰ってこないでしょう。

沈黙、静寂。それしかないことに気がつくでしょう。

それが私の本質なのです。

引用した部分で言っていることはそういうことなのです。

あなたの本質は静寂である、と。

静寂があなたなのだと言っているのです。

 

 

久しぶりに読んだこの本のこの部分によって理解できた。

すべてが静寂であるということも理解できた。

いや、すべてが静寂であることはなんとなく前からわかっていた。

それはフランク・キンズローの本に書いてあったことを実践したからだ。

ユースティルネス

ユースティルネス

 

 すべてのもの、空間は静寂だ。

私も静寂だ。

そのことは感覚として時々感じることは可能だったが、それが私の本質だとは思えなかった。

だが、「”それ”は在る」によって本質であることに気がついた。

静寂が本質ならば、私もいないしあなたもいないことが理解できる。

 

 

ただ、理解できるというのはあくまで理解できるだけであって、まだ完全に<在る>に留まれていない。

<在る>に留まろうとすれば留まれるが、完璧ではない。

だから、まだ私の非二元の探求は終わっていない。

ここから先はどうなるかわからない。

本当に終わりがくるのか、それとも終わらずに人生が先に終わるのか。

ただ、間違いなく言えることは1年前よりも非二元のことが「理解」できたということだ。

理解だけでは完璧ではないにしても。